38回 中四国精神保健福祉士大会 徳島大会 報告

 

【日  時】 20231125日(土)、1126日(日)

【場  所】 あわぎんホール(徳島県郷土文化会館)及びオンライン参加

【テ ー マ】 精神保健福祉士<PSW>のあゆみかた

~たのしみはつながりの中に、つながりはかかわりの中に~

【参 加 者】 約190

 

●大会1日目 基調講演・シンポジウム 報告

 今回は対面及びオンラインでのハイブリッド形式にて、第38回中四国精神保健福祉士大会 徳島大会が開催された。(日本精神保健福祉士協会は、精神保健福祉士の略称をMHSWに変更してあるが、徳島大会においてはPSWの略称を使用しているため、統一してPSWと表記する。)

 

<基調講演>

 基調講演では大会テーマと同じく、『精神保健福祉士<PSW>のあゆみ方』と題し、聖学院大学心理福祉学部 教授 相川 章子氏よりご講演いただいた。

 はじめに、相川氏の自己紹介も踏まえ、これまでのかかわりを通した相川氏自身のあゆみに触れた。

 まず、なぜ精神保健に関心を持ったのか、PSWとの出会いのきっかけについて語った。相川氏は中学生の歳に荒れた学校に転校することになった。転校するまで、そのような学校だとは思わなかったこともあり、実際に学校に通うことで心を閉ざした。そのため、友達ができず、いじめられたりもした。同時期、大好きだった曾祖母との死別がショックで摂食障害となり、内科を受診した。その後、母と祖母と相談して、カウンセラーにつながることとなる。そのカウンセラーの夫がクリニックに非常勤で勤める大学病院の精神科医であったことから、初めて精神科クリニックを受診するに至った。その後、父の転勤で転校が決まり、恵まれた環境に移ることができた。しかし、その後も摂食障害に悩んでいたという。大学受験の歳になり、今後の進路をどうするか考えることになる。この時点で、過去に精神科を受診したことから、「精神科を受診した経験があると、就職する時に何か支障があるのではないか」「結婚する時にも支障があるのではないか」と絶望感を抱いていたが、実際蓋を開けてみれば、全くそんなことはなかったなと感じることができたという。この経験を活かせないだろうかと考え、精神科医を目指したことがあった。結局精神科医は挫折したそうだが、やはり精神保健分野で働きたいという思いで、希望にそぐう学部・学科がある大学を探し、琉球大学医学部保健学科へ進学することとなる。保健学科では、看護師や保健師などに関する講義や実習があったそうだが、その中で非常勤講師だったPSWの安里 千代子氏との出会いがある。安里氏の元で精神保健福祉を学び、卒業論文の調査のため3年生の夏休みに毎日精神科病院へと通った。その経験の中で、素朴な疑問がわいたり、様々な気づきを得たとのこと。その素朴な疑問というのが、「入院して良くなっているのか?」ということだった。初診で出会ったAさんは、入院当初具合が悪く苦しんでいた。退院後デイケアに通い始めたAさんは、落ち着いてはいるものの、ぼーっとしていて希望が無いような表情で、相川氏は切ない気持ちになったとのこと。入院中Aさんと話をしたが、落ち着きはないものの、やりたいこと等の希望を持っているのに叶えられずにイライラしてぶつけているという印象だった。それが退院後に意欲がないような、自分を生きていないようなAさんに見え、そこから「精神科病院とは何なのだろう」と考えるようになった。相川氏は実習を通して、「これから何事にも躊躇せず、いろいろなことに顔を出そうと思います」と決意する。その実習記録の相川氏の言葉に、「出会いを大切にし、何かのチャンスに活用するなどその積み重ねが私たちを育てていくことにもなるのではと考えます」という安里氏のコメントに背中を押され、積極的に行動を起こすPSWとしての相川氏の人生がスタートしていった。

 続いて、PSW13年目(非常勤・修士課程)の相川氏のあゆみである。大学を卒業し、東京に戻り、安里氏から国立精神神経センター精神保健研究所のPSW松永 宏子氏への紹介があり、松永氏から精神保健研究所デイケア及び日本精神保健福祉士協会(以下、本協会)の事務局の仕事につながり、柏木 昭氏や、谷中 輝雄氏、門屋 充郎氏との出会いにつながっていく。1年目から勤めた精神保健研究所デイケアは、メンバー主体であったことから、「一緒に考える・決める大切さ」について気づきがあった。デイケアの全体ミーティングは、メンバー・スタッフ全員でデイケアに関するすべてのことを話し合い決める。ある日、メンバーの1人がイライラしてお茶碗を投げつけて割ってしまったことがあった。その時デイケアには非常勤スタッフばかりで、誰も何も言わないので見て見ぬふりをした方が良いのかと思い、相川氏もそのようにした。後日、スタッフミーティングで常勤スタッフとその話になると、全体ミーティングで「こんなことがあったそうだけど、皆どう思ったのか」という議題が上がった。他にも、職員の異動などについても、「何故異動させるのか」といった反発が起きて意見が飛び交ったこともあったという。それは、「私たちのことを私たち抜きに決めるな」という『本人主体』の体現であったと相川氏は感じたという。また、大学生から長らくひきこもっていた青年Tさんとのデイケアでの出会いでは、デイケア初日は他者と会うことに緊張していたのであろう、珍しそうにひとりひとりを覗き込むようにしたり怯えた様子で見ていたりした。しかし、メンバーがTさんに声を掛けたりするうちに、いつの間にかデイケア終了後にメンバー同士でお茶をしたりドライブに出かけたりするようになった。Tさんの表情もみるみる豊かになり、「仲間の力で元気になる=仲間の力・友達の力(ピアの力)ってすごい」と感じたという。反して、素朴な疑問が生まれる。いつも無口で無表情なMさんという人がいた。ある日卓球でMさんがスマッシュを決め、嬉しそうに笑顔になったことがあった。それがスタッフ間で話題になり、その日の記録に「Mさんが笑っていた」と書かれていたが、相川氏はそれに対して「そう書かれてMさんは嬉しいのだろうか」という素朴な疑問を抱いたという。相川氏は常々自身の“当事者性”があり、「私だったら…?」と考えてしまい、何を書けばいいのか分からず記録がなかなか書けなかったとのこと。「私自身ももしかしたらデイケアに通うメンバーの一人だったかもしれない」という思いがあり、自分自身が支援者に向いているのだろうかという疑問にもつながっていた。その中で、2年目に大学院へ行くことになり、松永氏から柏木氏、谷中氏、門屋氏との出会いにつながっていく。まず柏木氏からは、「あなたは何を研究したいのですか?」と問われた。相川氏は、卒業論文は指導教官の指示の通りテーマが決められているものと思っていただけに、柏木氏から問われたことへの衝撃を受けたという。その後も何度も問われたことで、自分自身が「尊重されている」と感じるようになり、主体的に考えられるようになった。この経験がエンパワメントされるという感覚を得た出来事であった。また、谷中氏と門屋氏の元で地域精神保健福祉活動をテーマに研究したいことを直談判したところ、快諾してくれた。谷中氏のやどかりの里でのやどかりセミナーでは、メンバーの方の講演で「退院後、自宅でひとり大好きなお寿司を食べたけど、砂を噛むような味でした」と発表した女性に、「支援は退院して終わりではない」という気づきを、また「障がいとは、病気の症状ではなく、生活のしづらさです」と発表した男性に、「孤立せずにつながりや幸せを感じることが大事」という気づきを得た。そして、生活のしづらさを改善・解消するには環境を整備するためのソーシャルワークが必要で、それこそがPSWの役割だと感じた。続いて、門屋氏の元で、農業の授産施設である帯広ケアセンターで1ヶ月過ごした。「ここでのPSWは、センター内だけではなく、地域の社会資源である」と教わった。病院が保有するグループホームに勤務するPSWであっても、病院からだけではなく、地域からも利用者を受け入れ、かかわっていくPSWでなければならないということを学んだ。

 次に、PSW410年目の相川氏のあゆみにおいて、大学院を卒業し、本格的に就職をする段階に入る。相川氏は大学院を卒業後、山間の過疎地域である新潟県守門村の作業所に就職する。当時の作業所は隣の土地に新しく建設され、従来の利用者は新しい方に移るなどと聞かされていなかった。相川氏が就職した初日、利用者へ新しい方に移ってもらいますとスタッフから説明があった時に、利用者からの「聞いていない」「私たちを管理しないでください」という言葉にドキッとした。その後、当然ながらまだ関係が築けていない相川氏が作業室へ向かおうとすると、施設長から「作業室にいくな(かかわるな)」と言われた。しかし、柏木氏の教えの通り、施設長からの指示を無視して、相川氏は作業室へ顔を出す。利用者が相川氏を警戒していることは、ひしひしと伝わってきた。ある日、施設長が作業室内を禁煙にすると言い出した。その時、相川氏の脳裏には初日の「私たちを管理しないで」という利用者からの言葉がよぎる。デイケア時代の全体ミーティングを思い出し、作業所内での全体ミーティングを立ち上げようと思い立つが、作業自体が1つの製品ができればいくらという出来高のため、ミーティングをする時間によって稼ぎを減らしてしまう。どうすべきかと考える中、ある日昼食に一緒にカレーを作って、そのカレーを食べながら全体ミーティングをしてはどうかと提案をした。その後、昼食の時間なら大丈夫という話になり、週1回全体ミーティングの時間を持てるようになり、禁煙の件についても一緒にルールを決められることになった。この出来事をきっかけに、所長が教えてくれるようになったり、相談をしてくれるようになったりして、日々の積み重ねで信頼関係を築いていくことを体現した。この経験の中で、作業所の利用者のひとりであるYさんから、「今は午前だけだけど午後まで作業したいと言ったら、まだ早いと思うと言われた」と相談があった。相川氏は、「ご本人がやりたいことを止める権利はあるのだろうか」と疑問を抱く。相川氏自身、過去に精神科病院に入院した際、行動制限を受けた経験があるため、その疑問を抱いたのではないかと分析している。一方で、「面接をしてほしい」と希望してきたTさんは、稼ぎ頭で一目置かれた存在であった。ただ話を聴いてほしいという思いで、面接を希望してきた。その時相川氏は面接経験が浅かったが、Tさんの話を聴いてみたいと思ったことから、Tさんの申し出を受けることにした。話を聴くことは相川氏にとって勉強になったことをTさんに伝えたり、面接をして話したことや貰ったメモを記録に残した際に「こんな風に書きました」とTさん自身に見せたりする中で、Tさんは「ここに書かれたと思うとスッキリする」と喜んでくれた。デイケア時代から記録が苦手だったという相川氏が、このTさんとのやりとりを通して、「面接の意義や記録はご本人のためになる」という気づきにつながった。また、一言もしゃべらない、作業も不器用ですぐ怒って帰ってしまうSさんが建設会社にお試しで半日アルバイトを開始した際、様子を見に行こうかと会社に連絡を入れたところ、社長から「彼は頑張っている。あなたに様子を見に来てもらいたいわけではない」と言われた。その時、相川氏は、「私がSさんのことが心配なだけで、彼が来てもらいたいわけでもないのに行こうかなんて思っていたんだ」と反省したという。それからのSさんは、1ヶ月遅刻や早退、欠勤もすることなく働き続けることができた。人には変わる力がある・可能性があるという気づきにつながった。数多のメンバーとの出会い、そして気づきを通して、多様な生き方・生き様・生きづらさ・困難を知った。そして、どんな生きづらさを抱えている人でも、その人にしかない“原石”を持っているということに気づく。相川氏は、「私は生きていて価値があるのか」とどこかで思っている部分があったという。その中で、「すべての人がその人にしかない“原石”を持っているのであれば、私にも“原石”があるはず。だから、私にも価値があるんだ。私は私のままでいい、生きていていいんだ」という一生の宝物をもらった。だからこそ、その恩返しとしてこの仕事を続けていきたいと感じた。3年間を新潟県で過ごし、その後都市部へ戻った相川氏は、『当事者主体・地域主体』を掲げ、地域活動支援センターの立ち上げに奮起するが、認可が下りなかった。その後、ピアスタッフと共にセンターの立ち上げをおこなうが、燃え尽きてしまい挫折してしまう。中でも、ピアスタッフのひとりであるOさんは、パソコンによる事務作業が得意な人だった。いつも黙々と作業をするOさんに、「オープンスペースで皆さんとおしゃべりしたりして過ごしていいですよ」と促したが、Oさんは「みんなと同じように病気があるのに、僕はお金をもらっている。皆は食費や交通費をかけてここにきているのに…」とこぼした。そのような思いを抱えていたOさんは、なかなかそのことを言い出せずに、人知れず葛藤し苦悩し、そして燃え尽きてしまった。Oさんがそのままセンターに来られなくなった理由は結局はっきりしないまま、相川氏に引っ掛かりを残して現場を離れることになった。

 続いて、福祉現場から教育現場へと活動拠点を変え、11年目~現在のあゆみへとつながる。福祉分野で学生とのかかわりをおこなうと共に、先述のOさんの燃え尽きという引っ掛かりをきっかけに、ピアスタッフ研究をスタートする。ピアスタッフ研究にて、石川 到覚氏との出会いを経て、国内に留まらずアメリカでもピアスタッフ(ピアスペシャリストと呼称される)とも交流をおこなった。日米での研究を通し、ポジション分析というものをおこなった結果、日本では「座りが悪い=葛藤が生まれる」という傾向にあることを知り、まさにOさんが抱いていた葛藤はここにあるのではないかと引っ掛かりが解決したように感じたという。そして、ピアサポーターという新たなポジションを生成・確立するためには、支援者や利用者も協働し、皆が変わっていく=リカバリー思考になることが必要なのだという結論に至った。その後、相川氏はピアサポートとの出会いによる福祉的予防の可能性や、ピアサポートの持つ不思議な力についても研究を続けている。

 最後に、ピアサポートの意義・価値について、「リカバリーのきっかけを作り、リカバリーを促進する」、「地域で自分らしく暮らす」、「誰もが安心して暮らすことができる大丈夫な社会へ変革する」という3つにまとめている。これらは、ピアサポートに限らず、ソーシャルワークの目指すところが一緒だと感じると相川氏は語る。近年、日本における精神科病床数や精神科在院日数が課題に挙がっているが、そこに関しての変革についても、当事者と一緒に考えていかなければならないのではないだろうか。そして、その変革において、経験がある人とない人が手を結び、相互尊重・協働をしていく時代になってきたのではないかと相川氏は感じているとのこと。ただ変えていくのではなく、支援の在り方を変えていかなければ、いいものに変わっていかない。そのために、ピアサポート・ピアスタッフがなくてはならないのではないだろうか。これまでは、経験のない人が制度を決めたり、サービスを提供したりしてきたが、これからの時代は、経験のない人だけではなく、当事者性を持つ経験のある人との協働をおこないながら、変革や実行ができることを相川氏は期待している。

 まとめとして、相川氏はピアサポーターの「一緒にリカバリーしよう」という言葉を紹介した。リカバリーはすべての人にあり、楽しい人生を送ることにつながる。そのために、相川氏はピア文化を広げたいと日々考えていると締め括られた。

 

<シンポジウム> 

 シンポジウムは、「世代をこえてPSWのあゆみを紐解く」をテーマに、本大会実行委員長の黒下 良一氏による司会進行の元、若手・中堅・ベテランの各年代PSW3名のシンポジスト(宮武 瑞希氏・青木 美紀氏・山本 真里氏)の発表及び、基調講演に引き続き相川 章子氏の講評がおこなわれた。本シンポジウムでは、シンポジストによる活動や取り巻く環境についての発表を中心に、年代や地域が異なったとしても、変わらない・変わってはいけないものを一緒に再確認し、大切な想いを共有する機会になることをねらいとしている。

 1人目のシンポジストは、岡山県より林道倫精神科神経科病院PSW5年の宮武氏である。宮武氏は急性期治療病棟、アルコール依存症治療病棟での勤務を経ている。元々は高校生時代に管理栄養士を志していたが、担任教師からソーシャルワーカーに向いているのではないかと言われ、精神保健福祉コースを選択して大学へ進学した。初めの頃は、PSWとして将来を進むか考えてはいなかったが、精神保健福祉実習で目の当たりにした現場で働くPSWがキラキラして見えたこと、「私もこのPSWの一員になりたい」と感じたことをきっかけにPSWとして就職を果たした。就職12年目には、大学での座学と実践が結びつかない感覚や、病棟の中に所属するPSWの孤立感など、多くの葛藤を抱え、苦しかったと話す。その苦悩の中、宮武氏を支えてくれたものとして、相談室があった。相談室で相談する度に、「私のPSW方針は何なのか」とハッとさせられたり、病棟に戻って「また頑張ろう!」と思えるようなスーパービジョンに近いものを受けることができたりしていた。そして、特に患者さんやその家族さんとの出会いが大きく自身を支えてくれていると感じていた。ここで宮武氏にとって印象的な患者さんとの思い出話を明かしている。統合失調症の男性Aさんは、妄想が強く、拒薬したり医師との関係性が悪かったりと、病棟内でも不愛想な困った患者さんだった。宮武氏はそんなAさんの退院を進めることに不安があり、無意識のうちに消極的になっていた。そのことに気づいた宮武氏は、「何故退院が不安なのか」「自分は何をしているのか」という疑問と向き合うことになる。そこからAさんとのかかわりを再考し、何度も顔を合わせ、話し合い、一緒に動くことを意識した。そうするうちに、Aさん自身のたくさんのストレングスに気づき、ご本人を心から信じることにつながっていった。それからのAさんは、妄想は持続していたものの、薬が飲めるようになり、退院できるようになった。退院後のAさんは半年間特に音沙汰がなかったものの、ある日突然ご本人から一本の電話が入り、Aさんの母親の手術が無事終わったことや、最近はたまにギターを弾いている等と近況を教えてくれたりしたという。同時に、電話を変わったAさんの母親からは、「宮武さんには入院中に本当に助けられた。元気にやっていますよ。宮武さんも元気でいてくださいね」と言ってくれ、とても嬉しかったと笑顔を零した。宮武氏にとっては、入院中だけのかかわりではあるが、その人の人生にかかわることができた嬉しさ、そしてPSWとしてのやりがいを感じたと振り返る。そして、学びや内省を繰り返しながら、PSWとしての成功体験を積み重ね、自身が無かった新職員だった頃の自分の壁を乗り越えることができたと思うと話す。そして2年目からはコロナ禍により、院内での活動に制限がかかってしまった経験を通して、会って話せる・自由に時間を過ごせる嬉しさを体感した。そして、PSWとしての価値を改めて深く考えるきっかけになった。

 2人目のシンポジストは、鳥取県のすおうメンタルクリニックPSW9年目の青木氏である。青木氏がPSWを目指したきっかけは、30歳の時に勤めた派遣会社の管理職となり、衛生管理者として労務管理を担うようになり、知識はなかったが病気や障がいを抱える人の働き方を模索することとなった。しかし、リーマンショックが起こり、派遣切りの前にも障がい者の雇止めを目の当たりにしたという青木氏は、社会参加と自己実現が阻害されることに強い憤りを感じ、社会福祉援助職を志すようになった。精神保健福祉士の国家資格を取得と同時に、鳥取県内の精神科単科病院に就職し、初めに急性期病棟を担当、その後精神科訪問看護に在籍した。令和26月、新規開業した現在の職場である圏域内唯一の精神科クリニックへ移り、現在に至る。クリニック業務に飛び込むことへの不安はあったが、アウトリーチがしたいという思いが勝ったと振り返る。そのアウトリーチへの強い思いは、直面した地域との軋轢がきっかけであった。通院を中断し、部屋に閉じこもってしまったAさんとのかかわりである。Aさんは母親が急に他界し、キーパーソン不在のまま、数日に1回差し入れられるお弁当が命綱であった。どうにかしなければと考えた青木氏は、市の保健師と共に自宅を訪問するが、その際、近隣住民に囲まれ、「何で病院に閉じ込めておかないんだ。暴れたらどうしてくれるんだ」と訴えられた。青木氏はその言い分に「精神疾患がある人は皆危険な人だとみなされるのか」と強い憤りを感じた。同時に、自身がPSWになっただけでは地域を変えることはできないのだという無力感も感じていた。そして、地域住民が抱く『よくわからない人への不安』は、精神科医療に係る私たち自身の課題なのだと気づく。その経験を通して、「私には伝える責任がある」と感じ、地域により近いクリニックでの勤務に加え、精神科医療や精神障がいの理解に向けた普及啓発活動に尽力している。また、ピアサポーターとの活動も通しながら、PSWとしての価値を高めていきたいとまとめられた。

 3人目のシンポジストは、高知県の南国病院PSW23年目の山本氏である。山本氏は自身のPSWの歩みを4つに分けて紹介された。まず1つ目は、大学時代についてである。当時話すことが苦手だった山本氏に、教員から「話すということは言葉を自分から放す・離すことだから、とても大変な作業だよ」と教わったことをきっかけに、自身の内にある思いを支援して言語化する仕事である精神保健福祉士との出会いにつながる。その後任意での通年実習を経験するが、話すことが苦手な山本氏は、やればやる程自信を失い、「この仕事に就いて良いのだろうか」と葛藤したという。さらにその後、デイケアでアルバイトをしてみることになり、様々な専門職がチームとなってかかわっていくことに魅力を感じた山本氏は、デイケアでの就職先を探すようになった。続いて2つ目に、精神科単科病院での就職である。レジェンドとも呼べるベテランPSWが在籍する精神科病院で、デイケアでの業務ができると思っていたが、半年間はデイケアに触れられず、何がしたいのかわからない状況に葛藤を抱いた。無事念願のデイケア配属になったものの、当時はまだデイケアにおけるPSWの存在意義が他職種に理解してもらえておらず、悔しい思いもした。3つ目は、高知市内のマンモス病院での勤務についてである。以前就職していた病院と違い、ゆっくりとかかわる時間が確保できないことや、他職種との関係性も十分構築されない中での業務だったことから、随分と苦しい思いをしたと振り返る。とある患者さんのかかわりでは、その人を取り巻く家族などのキーパーソンが全員脆弱で、山本氏自身が主導権を握って走り回ってしまっていた。「本当にこれでいいのか」という疑問と共に、「この状況を打開したい。皆そう思わないの?」と思ったことをきっかけに、他部署の人とともにピアスーパービジョンの機会を持つに至った。その後、産休・育休から戻ると、配属が地域活動支援センターとなり、相談業務を主に担い、「こういうことがやりたかった」と感じるとともに、現在PSWが地域に居ることにも納得を覚えると話された。しかし、市からの委託が終了し、法人としては地域活動支援センターを閉鎖するという決断に至ったことを機に、4つ目の南国病院への転職~現在に至る。地域移行支援の活用もおこないながら、支援がありながらも3年近くかけてようやく退院に結び付くことの理想と現実との違いも感じることがあった。また、これからも患者さん自身や地域に向けた普及啓発を含む交流や活動を継続していきたいと締め括られた。

 後半は、質疑応答を中心に意見交換を実施した。質問には、各県の精神保健福祉士協会とのつながりと協会での活動についてや、PSWの専門性や価値を他職種に伝える時に大切にしていることは何かなどが挙がった。

 最後に、相川氏よりコメントをいただいた。相川氏からは、質疑応答の中で本協会や県協会への入会をしないPSWについて、「困っている」ということを誰かに話せない以前に気づいていないことが課題にあるのではないかと述べた。ピアサポートの原点には困りごとやニーズがあることではないかと思うが、困らない人はなぜ困らないのかを考えることが大切ではないかと説く。中には、職場の先輩や同僚に相談して解決できているということもあるのかもしれないが、PSW仲間としてどうかかわっていけるかが課題となってくるのではとのことであった。そして、シンポジストだけでなく、参加者全員にPSWのあゆみがあるので、その話をぜひこの後の懇親会で聴かせてほしいと和やかに締め括られた。

 

 

報告  広報部 松下 瑞季


●大会2日目 分科会報告

【分科会① 地域移行支援 いってみよう☆やってみよう☆(ハイブリッド形式)】

 地域移行をテーマにした分科会1では3人の演者の実践報告がされた。

 公立の精神科単科病院での実践報告をした山口県の岡さんは、退院したがらない患者さんの話から居心地が良すぎる医療の問題を指摘した。「困難の多い地域に出るよりも病院にいれば安心」という、ご本人だけではなく支援者の意識もあり、長期入院を可能にしてしまっている。過剰支援が当事者のエンパワーを削ぐ場面は、私自身も身につまされ、PSWとして心当たりがある人も多いのではないだろうか。

 愛媛県の自立訓練事業所における実践報告をした受川さんは、B型作業所を希望する本人に対しての「まずデイケアから」という支援者の「勧め」を振り返り、「段階を踏んで」地域移行していくパッケージは、支援者の不安によるものではなかったかと提起した。その不安は誰のものなのか?ステップアップに時間をかけすぎることで本人の人生の時間を奪っていないか?などの問いに向き合う姿勢に、信じて後押しすることの意味を改めて考えさせられた。

 生活支援センターでの支援を報告した徳島県の三原さんは、家族や近隣住民なども含めた多くの支援者を巻き込みながらも地域で生きることを望む、いわゆる「困難事例」の当事者に寄り添った支援を振り返った。かかわる人全てが悩みながら進み、叶えられない本人の生活をPSWが一緒に考えていく過程は、その過程そのものがソーシャルワークだと思わせてくれた。

 総評をした高知県協会会長の宮本さんの言葉が印象的だった。「地域移行の目標は退院ではなく、地域の中でのその人らしい生活。いかに地域の魅力を見せて感じてもらうかが大切」「支援者の不安が本人のエンパワーを削ぐことを覚えておくこと」「問題を解決できなくてもその混沌の中に留まることそのものに本質があったりする。本人の行動の中の思いを見ていきたい」。どれも、かかわり続けることの意味、そのためにPSW自身も自分と向き合いながら「揺れながら自律的に立つこと」が求められていると感じた。

 仲間の実践を聞くことで自分の実践をありありと振り返ることができる中四国大会はやっぱり本当に貴重!と、私自身もエンパワーされた機会だった。来年もぜひ参加したい。

 

報告 竜雲メンタルクリニック 山下 紀子

 

 

【分科会② 小さなアクション、大きな未来 ~えっ?まさかそんなこともソーシャルアクション!~(対面形式)】

分科会②は対面で行われ、3名の登壇者がそれぞれの活動の中でのソーシャルアクションを発表した。

広島県の地域生活支援センターふれあいの原田 葉子氏は、施設コンフリクトの経験を話された。病院が施設を開設しようとしたときに地域住民から強い反対運動がおこり、施設開設までMHSWとして当事者とともに地域住民の理解を得るために闘っていった。

具体的には、地域住民に対し、障害の理解を一方的に押し付けるのではなく、障害者と出会い、ともに経験を分かちあう場を作り、人となりを知ることで理解が進むよう働きかけた。そのことから徐々に地域が障害者を排除しようとする傾向から理解しようとする方向へ変わっていった。差別され排除される悲しみや怒りを、地域を変えるための原動力にして丁寧に根気強く働きかけていかれたことに感銘を受けた。

香川県からは、三光病院の竹井 美季氏が登壇し、かかわりの中で患者の権利を守るために行ったソーシャルアクションについて発表された。竹井氏は、MHSWとして、行政の説得により、無理矢理納得いかないことに同意させられそうになった患者の思いに寄り添い、患者の届かない声・思いを届けるために市長への提言を行った。また、患者の地域生活を支えるために地域に働きかけた。その結果、患者は、生活支援を受けながら自分の望む暮らしができるようになった。MHSWとして本人の思いを聴き、本人の権利を保障する大切さを改めて確認することができた。

徳島県の鳴門シーガル病院の河野 竜也氏は、長期入院者への退院支援の中でのソーシャルアクションについて発表された。MHSWとして、患者と医療従事者の両方に働きかけ、チームで退院を目指すための取り組みを行われた。河野氏は、患者のできていないところではなくできているところに目を向けることを大切にかかわられており、MHSWとして忘れずに持っていたい視点であると感じた。         

3人の方の発表後、グループワークを行い、報告者が参加したグループでは、「差別を受けたとき、当事者と怒りを共有すること、それは、怒りをあおることではなく、当事者に当事者の権利を伝えることであるということ」「長年入院している患者さんに対してパターナリズムになっていないか自分を振り返る必要性」など、MHSWとして大切にしていきたいポイントを確認した。

 

 

報告  白井 理香